展示資料室

資料① 吉村虎太郎の手紙(市指定有形文化財)


吉村虎太郎は先に滞留したことのある昵懇(じっこん)の間柄である金兵衛こそ龍馬らを安心して任せられる腹心の同志であった。(松本久仁恵)

(原文)

致寸翰候、弥御安康珍重

不過之候、誠二過日ハ滞

留大二御馳走被成下

悉仕合候 然者両友此

度罷越候間 萬事宜御

執斗可被下 僕も後刻

参府之積二候得共 笠

取遅候故 如斯二御座

候 不具

 

三月六日

冨屋  土州

金兵衛様 吉村虎太郎

(内容)

先日は滞留し、

大変ご馳走になり

ありがとうございました

今度二人の友人が

行きますので、万事よろしく

取り計らってください

僕も後ほど京へ上るつもりですが、少し遅れますので

このようになっています

 


幕末の風雲児

坂本龍馬四国路脱藩の行程(高知~長浜)

文久2年(1862)

 3月24日高知出奔

    25日檮原着(泊)

    26日榎ヶ峠~泉ヶ峠着(泊)

    27日宿間~長浜着(泊)

    28日長浜出発


資料② 竹と鶴の掛け軸

大橋文養斎(不明―1870)
大洲藩家老。名は英信。若宮養徳の門人で浮世絵風の画をよく描いた。
65才で五郎村に隠居し、茶道、陶芸、絵画を楽しんだ。
明治3年死去した。


金兵衛は商人として大洲藩への出入りが許されていたと思われる。そして何かのお礼に家老大橋文養斉書の掛け軸を戴いたのでは?と推測されます。(松本久仁恵)

 

資料③ 龍と虎の掛け軸

若宮養徳(1754頃―1834)
宝暦4年頃に大洲若宮村紺屋幸衛門の次男として生まれた。
7,8歳の頃、家の門口に貼り付けていた武者絵が六代藩士の目にとまり、長州藩狩野派の林美彦(文流斎洞玉)について絵を学ぶ。その後十代藩主の御用絵師となり、盤珪禅師が開山した如法寺本堂の28枚からなる大襖に描かれた「龍図」の他、大洲地方の寺院に大作を多く残している。
天保5年81才で死去したと伝えられる。
父親は大洲若宮村の紺屋である。
大洲藩から戴いたものと思われる。
「龍と虎の図」
誠に当邸に相応しい掛け軸である。
(松本久仁恵)


資料④ 龍馬 土佐勤王党と脱藩

土佐勤王党血盟者192名の志士の名がある。土佐勤王党を旗揚げ、文久2年3月24日
「吉野に花見に行ってくるぜよ」の言葉を残して脱藩した龍馬。3月27日冨屋金兵衛邸に宿泊。4月1日下関の白石正一郎宅を訪問する迄の記述である。(桑田一書)

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資料⑤ 冨屋金兵衛邸 復元図


坂本龍馬は、脱藩の際、四国路最後の夜を長浜で過ごした。冨屋金兵衛邸である。

ここから維新の夜明けが始まった。

この事実は、長浜にとって大きな誇りであり財産である。

冨屋金兵衛邸 南立面図
冨屋金兵衛邸 南立面図

大洲市観光協会 長浜支部作成

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資料⑥ 沢村 惣之丞 口供之記

これは沢村惣之丞(關雄之助は沢村の変名)が後年に口述したという脱藩行程の覚書。

龍馬の義兄高松順蔵(小埜は号、龍馬の姉千鶴の夫)が明治6年に書き写したもの。

四国における最終地として3月27日に到着した金兵衛宅は、沢村が虎太郎らと先に脱藩した際にお世話になった場所である。

冨屋金兵衛が土佐の志士を泊めたということは、大洲藩が勤王藩であったことに相通ずるものがあるように思われます。

(村上恒夫著 歩いてみよう坂本龍馬脱藩の道)より


關(関)雄之助口供之事

三月二十六日 四満川より韮ヶ峠に至る

信吾これより引返す 小屋村より榎ヶ峠―横通り―封事ヶ峠―三杯谷―日除―水ヶ峠ヲ経て泉ヶ峠に至る

龍馬俊平と供に泊まれり

二十七、北表村より宿間村に至る

俊平コレヨリ引返ス

宿間村より金兵衛邸に至るまで

大洲城でを経涉すること七里半

金兵衛邸より招賢閣 三田尻まで二日を要せり

明治六年十一月十五日 自宅にて誌す

高松小埜   寫し うつし


資料⑦ 龍馬・志士脱藩の道

檮原町教育委員会作成

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この他にも、展示室には解読できていない資料も含め、冨屋金兵衛が残したものが多数ございます。

ご宿泊でなくとも、お立ち寄りいただき、多くの方に金兵衛が残した当時の面影をお楽しみいただけたらと存じます。

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全国龍馬社中会長 橋本邦健書

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